マイセンの「剣マークの変遷」のご紹介をします。
マイセンの製品には、底面に窯印として「剣マーク」が描かれています。このマークは、男性は「シュヴェルトラー」、女性は「シュヴェルトレリン」とよばれる専門の絵付師によって手描きされています。この窯印は、1722年にマイセンの検査官のシュタインブリュックが、国立マイセン磁器製作所の窯印として、ザクセン選帝侯の紋章から「双剣の文様」を使用することを提案したことに始まりました。それまでは、マイセンの生みの親、アウグスト強王(アウグスト・レックス)の頭文字ARを組み合わせたものが使われるか、何も描かれない場合もありました。剣のマークが正式に採用された後、剣の描きかたは歳月とともに変化し、当初はほとんど真っすぐに描かれていた刀は時代と共にサーベルのように優雅に湾曲した形になりました。刀の交差する位置もしばしば移動し、さらに星形や点、弓形などのマークが描き添えられる時期もありました。こうした窯印の変遷は、作品の制作年代の推定に役立っています。また「剣マーク」は1875年以降、マイセン磁器製作所として国内外で商標登録され法的に保護されています。
MEISSENメモ(48):美術様式から見たマイセン磁器、「現代」のご紹介
1710年に設立し、300余年の歴史を有するマイセン。戦後、廃墟の中からも立ち上がり、1960年代に作られた「芸術の発展をめざすグループ」の5人のアーティスト達は、寝食を忘れて新しいデザインの開発に取り組みました。メンバーのハインツ・ヴェルナー教授、ルードヴィッヒ・ツェプナー(故人)、ペーター・シュトラング、フォルクマール・ブレッチュナイダー、ルディ・シュトレ(故人)の名は、伝説的な憧れと尊敬をもって語られています。彼らが高齢となった今、クリエイティヴの面では彼らの業績を受け継ぐ30~50代のアーティスト達に期待がかけられています。ホルスト・ブレッチュナイダー、アンドレアス・ヘルテン、グードルン・ガウベなどがあげられます
*左から
ルードヴィッヒ・ツェプナー氏
マイセンの磁器工場で1948年から1952年まで造形を学び、優秀な成績で卒業後、更にベルリンのヴァイセンゼー美術専門学校で造形を勉強し、マイセン磁器工場に戻りました。数々の受賞作品のうちには、アラビアンナイト・サマーナイトが絵付されるグローサーアウスシュニットシリーズのフォームも彼の作品です。
ペーター・シュトラング氏
1936年、ドレスデン生まれ。造形家シュトラングは、1950年から54年まで製作所で造形を学び、その優れた才能から、ドレスデン造型大学のアルノルト教授のもとでさらに研鑚を積みました。1960年に製作所に戻り、「芸術の発展をめざすグループ」の設立メンバーとなって活躍しました。彼の作品は、20世紀後半の磁器芸術全体に大きな影響を与えたといわれます。動と静、緊張と弛緩など、相対するものの一致をめざし、その優れた抽象と象徴のなかに、「シュトラング」という個性を強く感じさせています。
ルディ・シュトレ氏
彫刻師を父に持つシュトレ氏は、子供の頃から美術の分野を目指し、1934年から1938年までマイセンにてグラフィックデザインおよびリトグラフを学びながら絵付けも勉強しました。戦後、1947年にマイセンの磁器工場に就職し、花の柄を描きながらヴェルナー氏のデザイン制作に協力をしました。彼の作品の中で線の形を描いた物が多いのは、リトグラフを学んだからです。
ハインツ・ヴェルナー教授
1928年、マイセン近郊コスヴィヒ生まれ。1943年にマイセン製作所に入ったヴェルナーは、早くから動物や鳥の絵付で頭角をあらわし、すでに1953年には装飾家として認められています。1959年から62年までは、製作所の活動と平行して、ドレスデン造型大学で学びました。1959年に「芸術の発展をめざすグループ」の設立メンバーとなり、多くの全く新しい作品や、陶板画など磁器芸術に新境地をひらきました。「千夜一夜」「真夏の夜の夢」「狩り人シリーズ」「ブルーオーキッド」「アーモンドの樹」など、現代マイセンの代表作となったヴェルナーの作品は枚挙にいとまがありません。メルヘン、幻想、自然の光と影、夢、それらを生命の充溢の中に描いていきます。
フォルクマール・ブレッチュナイダー氏
1930年、マイセン生まれ。1944年、14歳でマイセン養成学校に入学。花と果物を専門に描く。伝統的な絵付方法を超え、皿やプラークからはみ出さんばかりのエネルギー溢れる花の絵を描き、衝撃を与えました。「芸術の発展をめざすグループ」には、1975年から加わり、花や果物だけでなく、ユニカート(1点もの)の制作にも熱中しました。女性の顔が花瓶に閉じ込められたように見える図柄など、独創的な手法なものが多いです。
ピエロ五体セット(5人のアーティスト)
20世紀後半に活躍したマイセンの5人のアーティストをペーター・シュトラング氏がユニークなミニチュア人形にしました。それぞれが得意な楽器を奏でている楽しい作品です。左から、ペーター・シュトラング(サクソフォン)、ハインツ・ヴェルナー(アコーディオン)、ルードヴィッヒ・ツェプナー(ヴァイオリン)、フォルクマール・ブレッチュナイダー(太鼓)、ルディ・シュトレ(ギター)。(商品番号:83500/83504/901300/5P、高さ:約10~13cm)
*現在、クリエイティヴの面で業績を受け継ぐアーティスト達
ホルスト・ブレッチュナイダー氏
1952年、ヤーナに生まれる。1968年に10年間の義務教育を終了。1968年から1972年、 国立マイセン磁器製作所で磁器絵付師として修業を積みました。1972年、花と果物柄の絵付師として、養成学校を「優」で卒業。1972年~1978年、果物画の絵付師として活動。1979年、「芸術の発展をめざすグループ」のメンバーとなりました。1979年~1995年、数多くの絵画をもとに磁器プラークへの絵付を行い、また多くの特別制作を行いました。1985年、磁器による壁面装飾の構想・制作部門を担当し、ハインツ・ヴェルナー教授、フォルクマール・ブレッチュナイダーとともに活動しました。1986年から1996年、「エキゾチックな水辺の花」など、ルードヴィッヒ・ ツェプナー作のフォーム「グローサー・アウシュニット」にさまざまな絵付を行いました。
アンドレアス・ヘルテン氏
1967年、バルト海のそばのウィスマール生まれ。絵を描きたいという熱い思いにかられて国立マイセン磁器製作所の門をたたき、1984年から1988年まで花絵付を学ぶ。ハインツ・ヴェルナー教授のもとで研鑚を積み、同氏のデザインによる大きな作品の絵付を手掛けるうちに、自由な創作・絵付で頭角を現し、はやくも1989年から「芸術の発展をめざすグループ」に参加。チーフデザイナーであるヴェルナー教授の高弟としてその新しいデザインを共に企画。自由な創作を許す師匠の下で、プラークなど室内装飾的な作品を多く手掛けるようになりました。1989年、1990年と、ハイリゲンダムで専門教育を修了。以後、専門のデザイナーとしての道を歩む。最近では、マイセンの新しいサーヴィス・フォーム「波の戯れ」に「ユーゲント」や「青い花」、「ベゴニア」などの魅力的な絵付を発表しました。プラークや他のユニカートの制作にも意欲的です。アンドレアス・ヘルテン氏によるデザインやユニカートは、見本市や展覧会などで高い評価を得ています。
グードルン・ガウベ女史
1961年、シュテンダール生まれ。1980年から1987年までハレのブルクギービッヒェンシュタインの工学デザイン大学で造形を学び、造形学士として卒業。ブダペストの工芸大学(1988)、ハレの大学(1988-1989)でさらに勉強した後、1990年に国立マイセン磁器製作所でフォーム・デザイン開発の仕事を始めました。彼女は伝統を保つこと、そしてモダンな作品を作ることを、その統一性を保ちながら実現させるように力を注いでいます。彼女は、マイセンのモダンを代表する作品の数々を作り出しています。幅広い基礎教育を積み、ハレの工業デザイン大学で助手を経験した彼女は、磁器という素材が持つ可能性の魅力に取りつかれ、幅広い作品を作り出すようになりました。彼女の作品には現代の磁器芸術がめざす方向性への一つの解釈があらわれています。
MEISSENメモ(47):美術様式から見たマイセン磁器、「アール・デコ」のご紹介
1710年の設立以来、時代ごとに新しい様式を取り入れてきたマイセン。その作品群は、約23万種類にのぼり「様式の宝庫」ともいわれています。今回は、「アール・デコ様式」を取り入れたマイセンの作品をご紹介します。「アール・デコ」は1910年代から30年代にかけて、フランスを中心にヨーロッパで流行した、幾何学的造形を取り入れた装飾様式です。マイセンでは大きな流れとはなりませんでしたが、マックス・エッサーの作品にアール・デコ様式の特徴がみられます。またこの頃、スイスやフランスの動物彫像の影響から、多くの動物彫像が生まれました。いずれも動物の姿態だけでなく、そこに宿る本性まで生き生きと表現しています。カワウソ、ウサギ、シカ、イヌ、シカなどがさまざまな動物が作られました。
彫像「エッサーによるヒョウ」*世界限定50点*
力強く堂々としたヒョウの姿です。頭を僅かに傾け、見る人の視線を拒んでいるようです。この微妙なニュアンスで、造形家マックス・エッサー(1885-1945)は、ネコ科特有の近寄り難く、同時に気分屋の風情で横たわるこの動物を完璧に表現しました。エッサーの彫像はアール・デコ様式の磁器芸術の傑作とされています。エッサーはヨハン・ヨアヒム・ケンドラー(1706-1775)が創り上げたマイセン動物彫像の伝統を1920年代に更なる頂点へと導きました。偉大な動物彫塑家、アウグスト・ガウル(1840-1910)に学んだ後、エッサーは1919年にマイセン製作所に入り、1923年、マイスターのアトリエの指導者となって1924年には教授の称号を得ています。彼の時代の多くの造形家のように、彼は動物彫像を手がけ、もしかしたら動物彫像の自由さと気軽さのゆえに、伝統や倫理に縛られた人間描写よりも優れた作品を生み出しました。しかしそのエッサーのヒョウ「ルパルドゥス」もそこから自由だったわけではありません。エッサーはこのヒョウを1920年代、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)の叙事詩「ライネケ狐」をテーマにした一大セットの一部として制作しました。その中でヒョウの「ルパルドゥス」は王家の腹心であり、一員で、狐の陰謀を見抜けません。叙事詩の中では余り重要でない役どころです。しかし高価なサーヴィスセットの彫像群を可能にした独自の演出によって、エッサーのヒョウは傑出した彫像として見事に大役を果たしています。(品番:78321/900584、サイズ:高さ17cm)
白磁彫像「カワウソ」
原型は、1931年にマックス・エッサーがつくりました。本作品は1937年にベトガー炻器という素材でパリ万博に出展され、グランプリを受賞しました。カワウソの一瞬の動きを捉えた名作として今日では炻器と白磁の両方で作られています。(品番:78713/000000、サイズ:高さ24.5cm)
白磁彫像「イタチ」
原型は、1926年にマックス・エッサーが作りました。イタチの一瞬の動きを捉えた名作として作られています。(品番:78710/000000、サイズ:高さ25cm)
彫像「ウサギ」
原型はマックス・エッサーによって作られました。装飾を極端なまでに排しながら、動物の本質を一瞬のうちに磁器の中に閉じ込めたとされる逸品です。(品番:78946/900500、サイズ:高さ12.5cm)
彫像「ヒョウ」
枝の上で虎視眈々と獲物を狙うヒョウは緊迫感に溢れ、細密に絵付されたその体は、ビロードのような毛並みまで表現しています。(品番:78934/900180、サイズ:縦18.5×横36×高さ28㎝)
彫像「ホッキョクグマ」
アール・デコ期の動物彫像の中でも、真に迫った造形で知られる「白熊」像です。オリジナルはアール・デコの造形家、ヤールによって1903年頃に作られました。白熊の重量感と毛の質感まで感じられる名作です。(品番:78793/900100、サイズ:高さ23×横幅51cm)
彫像「2匹のグレーハウンド」
アール・デコ期の偉大なアーティスト、オットー・ピルツ(1870-1934)が1910年に原型を作り、20世紀のマイセン動物彫像の傑作とされている作品です。グレーハウンドのしなやかな肢体と2匹が相戯れる様子が躍動感をもって表現されています。18世紀にはじまったマイセンの動物彫像は、動物の姿形だけでなく、そこに宿る野生の魂まで描くことで知られていますが、その伝統が20世紀においても受け継がれていることがわかる逸品です。(品番:78701/900180、サイズ:高さ26cm)
彫像「鹿」
アール・デコ期の優れた造形家、エーリッヒ・エーメが1938年に原型を作りました。硬質白磁が誕生する以前に生まれた赤茶色のベトガー炻器は、白磁が生まれるとすぐに作られなくなってしまいましたが、その優れた彫塑性から、アール・デコの時代に見直され、多くの優れた動物彫像が創作されて今日に至っています。本作品においても堂々とした牡鹿の姿が見事に表現されています。(品番:86157/000002、サイズ:高さ56cm)
*マイセンの製品は、全国主要百貨店 でお求めいただけます。