夜空のような「プラチナコバルト」の絵付をご紹介します。
プラチナとコバルトブルーのコントラストが美しい、まるで夜空の星座を描いたかのような文様。
この絵付技法は1969年頃、現代マイセンの巨匠、ヴェルナー教授と
アーティスト、ルディ・シュトレによって生み出されました。
二度の高温焼成の後にはじめて得られる深遠なコバルトブルーの上に、
高価な目の覚めるようなプラチナで鮮やかに絵付されます。
描かれているのは、現代マイセンの人気シリーズ「サマーナイト」のワンシーン「花の輪舞」に登場する
大鹿、鹿、キツネなどの森の動物。
よく見るとフォームいっぱいに描かれた動物たちは、無数の小さな花・葉・渦模様から成り立っています。
そしてその周りにも花がエレガントに散りばめられています。
カップやソーサー、プレート、それぞれ異なる絵柄が描かれているのも特徴。
夏の夜にぴったりな幻想的で豪華な作品です。
MEISSENメモ(108):夜空のような「プラチナコバルト」の
MEISSEN マイセン:ベトガー炻器に絵付が施された
珍しい作品のご紹介
ベトガー炻器に絵付が施された珍しい作品をご紹介します。
白磁が生まれる前の焼物、ベトガー炻器に絵付が施された珍しい作品、
ライオンの仮面「エキゾチック」とゲラダヒヒの仮面「エキゾチック」を
ご紹介します。
ベトガー炻器に描ける上絵顔料は限られているため、
絵付は非常に困難とされています。
本作品は花絵付のマイスター、カトリン・ゲッツラフがデザインし、
試行錯誤で色合いを研究し完成させました。
主にアフリカ大陸に生息する雌の「ライオン」と稀少な大猿「ゲラダヒヒ」の顔に
密林の花や葉を描きました。
野趣豊かな赤茶色のベトガー炻器に独特のエレガンスが生まれ
印象的な作品となりました。
仮面のフォームのオリジナルは20世紀初頭のマイセンを牽引した造形家、マックス・エッサーが1920年代に制作したもので、
当時その見事な造形美が大変な話題となりました。
左:ライオンの仮面「エキゾチック」、右:ゲラダヒヒの仮面「エキゾチック」
カトリン・ゲッツラフ
Katrin Getzlaff
1969年マイセン生まれ。
1986年、マイセン磁器製作所付属養成学校に入学し、1990年に卒業(花絵付)。
卓越したその技術によって2009年から自然主義の花絵付を中心に作品の幅を広げ、
多くの世界限定作品を手掛けて今に至っています。
マックス・エッサー
Max Esser
(1885-1943)
造形家。ベルリンで学び、
マイセンとは契約によって自由な制作活動を行っていたした。
ベトガー炻器による動物彫像は特に有名です。
彫像「カワウソ」で、1937年パリ万国博覧会でグランプリを受賞。
※ベトガー炻器
マイセンの創始者、アウグスト強王の命を受け、錬金術師、ヨハン・フリードリッヒ・ベトガーによって、
ヨーロッパ初の白磁を発明するのに先立って作り出されたのが赤茶色の焼物でした。
それは炻器といい、その記念碑的な価値から「ベトガー炻器」という名称で呼ばれています。
炻器は膠塊粘土(こうかいねんど)と呼ばれる鉄を含んだ茶褐色の土で作られています。
白磁の焼成の成功以降は次第に顧みられなくなりましたが、二十世紀に入ると、彫塑(ちょうそ)に適した特性が見直され、
再び動物彫像など多くの作品がこの製法で作られるようになりました。
MEISSEN マイセン:「宮廷の小花」シリーズ、新色のご紹介
「宮廷の小花」シリーズの新色をご紹介します。
19世紀のマイセンに偉大な足跡を遺した造形家、ロイテリッツが創作した「宮廷の小花」。
このシリーズの魅力は、バロック、ロココ、ビーダーマイヤーなど、
さまざまな美術様式が渾然一体となったデザインにあります。
バロック様式を思わせる豪華なフォームと、可憐なビーダーマイヤー様式の小花柄の絶妙な調和、
さらに金彩を施した華やかな「宮廷の小花」は、当時、新たに富を獲得したブルジョワ層の人気を博しました。
またこのフォームはオリジナルの原型に付された認識番号から「Bフォーム」とも呼ばれ、
今日までマイセンならではのデザインとして愛好されています。
この伝統的な「宮廷の小花」に新色が登場するのは画期的なことです。
爽やかなアプリコットとターコイズの2色が、歴史あるフォームを新たに彩ります。
*既存のカラー
*制作風景
エルンスト・アウグスト・ロイテリッツ
Ernst August Leuteritz
19世紀の革新的指導者。
1849年から1886年までの37年間にわたり、
マイセン磁器製作所の造形部門の責任者を務めました。
マイセンの古典的なフォームに注目し、さまざまな時代様式を組みあわせて、
新たなスタイルを生み出しました。
彼はロココ様式の復興と共に製作所のアーカイブをも甦らせました。
マイセンの古文書資料館には実に320の原型がロイテリッツの名前とともに記録されています。
製作所が再び世界的な名声を得る契機となった1855年のパリ万博をはじめ、
数々の万国博覧会への参加も彼の主導で行われました。